2026.10.31
エッセイ
「一番になる」
私が就職したトヨタ系販売店はユニークな会社と標榜しており
確かに、他系列から鞍替えできた唯一の会社だった。
昭和48年3月に入社したが、その前に会社から
手紙が来て入社を鶴首して待っていると書いた上に
入社前だが特別価格で販売する
と書いてあった。
父母は私が肩身の狭い思いをせずに済むように
パブリカ1200ccを買ってくれた。
実は入社してから分かったのだが、
日産陣営から転換して5年目であり、
転換時は3拠点だったが故十河専務が米国日産で展開した手法で
11拠点まで販売網をつくり
満を持して「マンハッタン計画」と称して系列で新車販売日本一を
獲得したという背景があったのだ。
つまり、メーカー初め系列販売店では「よそ者」扱いであり、
転換時に世話になった加藤誠司氏の面目を立てるという意味もあって
意識的に拡販したのだ。
フランチャイズ制なのでテリトリーと取扱い車種が決まっているので
特にテリトリーの市場規模が直営の東京より3分の1程度という
ハンディがあったが月間1578台の記録を作ったのだ。
これで他社に「量」で圧倒して存在を認めさせたのだ。
しかし、入社後、半年経過した頃に故十河専務が
「担当員がシェアでは劣るというのだ」
と嘆いたのだ。
そこで、実力を認めさせるために、
担当員の各車種で平均シェアを超えたら全車種でも超える
という単純計算の指摘に対して、
私たちの大阪は伝統的に商業車の市場が大きく、
各メーカーも販売強化しており必然的にシェアが低い
という構造的な問題があったのだ。
そこで、私は反論の為に「加重平均」の概念で
他の地域は商業車のウエイトが少ないので影響が小さいので
担当員の指摘が通るが
私たちの市場では商業車市場のウエイトが大きいので
担当員の仮説が崩れるということを
「数学的背理法」
で論文的に証明したのだ。
フランチャイズ契約なので毎年トヨタと契約を交わすのだが、
その際、故福井社長が豊田英二さんに
テリトリーの実情と担当員の接し方を話して、
私の論文(?)を示したそうで、
豊田英二さんは「お宅は数学者を雇っているのか」と驚いたと
故福井社長が話を聞かせてくださった。
お蔭で担当員との論争(?)は終止符を打ったという話。
確かに、トヨタの中では異質なので、ある種「ムラ八分」の状況で
私が経営企画を担当した時に「物流改善プロジェクト」があり
系列のモデル店に立候補したが、
その時に来た国内物流部の鍔本課長は
「ホンマはお宅を指導したくなかったが、川瀬部長の指示だから」
と渋々の初対面であった。
川瀬さんは元担当員で
トヨタ系列の各社は地味な店舗展開をしていたが
うちは故十河専務が米国日産での経験を導入したマーケティングで
急激に業績を挙げた
というエピソードをよく知っておられたのだった。
私は、まだ「ムラ八分か」と思ったが、
「ようし、他社が目を剥く会社にしたる」
と心に誓ったのだった。
他社は手作業の物流管理だったが
うちはシステムを使ったもので定着性や公平性が担保された
もので威力を発揮したのだ。
つまり、新人営業マンでも納車希望日をいれたら「枠」を確保でき
ベテランの我がままを排除できたのだった。
入社した頃は「仕事量の確保」がスローガンだったが
システムを進めて「質」を高めるような管理システムを構築して
「儲かる会社」になったのだった。
「クルマが売れるコンピュータ」が故福井社長からのミッションだったが
「質」の面で貢献し、最後は「テレマーケティング」で
「アリスト販売で日本一」に貢献したのが「量」の最後だった。
「質」も「量」もやり尽くした時に左遷人事があって
「魂を売るな」という入社時の上司の言葉を頼りに
「一度しかない人生」を自分の「道」を歩むと言って退職し、
関連会社に移り、その後、船井流の資格を得て経営コンサルタントとして
起業して今日までやって来たのが本音であり
「縁・運・つき」に恵まれて、今日までやって来れたと感謝している。
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