2026.03.12
エッセイ
「食い扶持」と「蓄え」
私は、平成6年(‘94年)4月から半年間、
船井総研の客員経営コンサルタント養成学校に通いました。
当時、45才でした。
大学を卒業して入社したトヨタ系販売店でコンピューターを担当して、
バッチ処理システムから始めて全社オンラインやテレマーケティングシステムまで
当時、必要と思われる開発を全て行ない、
手持無沙汰になった頃に経営企画室を拝命しました。
いきなり「もう、コンピューターはええから、何か考え」とミッションもなく
拝命したのです。
困ったのでトヨタの担当者に相談すると
トヨタ物流改善のプロジェクトがある
と教えていただいたのです。
社長に報告して、モデル店になる手紙を出していただき、
運よく担当部長が担当員だったのでモデル店になりました。
このJit方式の営業活動を推進するOJTのリーダーや
IBMや外資系コンサル会社の窓口担当をしました。
しかし、「望月の欠けたることも無しと思へば」は
菅原道真公が三女を中宮として権力を誇った頃に詠んだ和歌ですが
その頃の私は、まさに、社長に支持されているという状況でした。
だが、「望月」は欠けていくのです。
次期社長候補の娘さんが役員になったが、
上司としてやってきたので、馬を合わせていると
社内から「写真を撮るといつも隣にいる」と
噂されるようになったのです。
これでは「不味い」ので距離を置くようになった「スキ」をついて
内勤三羽烏と言われた課長職を含めて私を「左遷」する人事をされたのです。
私を動かす為に仲のよい業務課長と経理課長を営業所へ異動したのです。
この会社に「三頭政治」という考え方があって
有力者3人が協調し合って全体をリードする
ということが根付いていたのです。
この強固な「三頭」をバラそうという政治的思惑に
社長の娘さんが加わったのです。
つまり、「権力に尻尾を振らない」3人だったのです。
私はデジタル思考的な面が強くて、
「尻尾を振る」
はどうしても納得できずに、悩んでいたら
亡き妻は教員だったので
「私が元気なうちに」
と言って退職を支援してくれたのです。
その後、関連のシステム開発会社に就職したのですが、
期待されて入社したが、風土が違いすぎて自分を出せずにいた頃に
船井総研客員経営コンサルタント養成学校
の広告が目に入ったのです。
当時(‘94年)は、コンサルタント養成がブームで
船井総研の他に日本LCAやタナベ経営も行っていました。
日本LCAはホワイトカラーの生産性向上の「DIPS」を商品に
タナベ経営は伝統的にコスト削減というイメージで
どちらもサラリーマン時代に経験しているので、
日本LCAの説明会で
「船井さんは単純や。お店に行って、一番売れる場所を聞き、そこに一番売れる商品を山積みにせよと言うだけや!」
という話を聞き営業が未経験だったので
「これや!」
と思ったのです。
幸い、退職金があったので自費で申し込んだのです。
この頃は、営業に転じており一人で活動できる「自由」を得ており
・幸い、前職のお客様からオフコンの注文を4台得ることができた
・会社には日本LCAのDIPSを導入し、風土改革に着手した
という背景がありました。
毎週、金曜日の夕方に太融寺にあった船井総研の本社に通い講義を受けました。
メインの宮内先生が「一番商品」づくりを指導するという事でしたが、
毎週、参加者のつくった「棚卸」を評論するだけでした。
肝腎の「船井流」は本を読めという事でした。
多分、宮内先生のイメージと違う生徒が多くて、
毎回、棚卸の寸評を繰り返すだけでは個々の生徒は満足できず
「いい加減や!」
という声が充満して、クレームをつけた人には返金したのです。
私も「不満」に思いながらスクールに通い
「一番商品」を見つけようとしましたが見つからず悶々とした心境でした。
そんな状況下でお客様を訪問していたのです。
ある日、営業に出かけたお客様の近くのレストランで昼食をとっていたら、
偶然、向かい席に座った方から、
「道という字は、首をかけて しんにゅうの点を目指して歩く事だよ。その道は九十九折かもしれないが諦めずに歩くことだよ」
と声かけられたのです。
余程、思いつめた顔つきだったのかも知れませんが、
グサッと胸に刺さったのです。
お名前を忘れましたが富田林市の自民党員と教えてくれたことを覚えています。
確かに、「道」という字を分解すると
「首」すなわち「命」をかけて歩むものであり、
最初は①のように低空飛行だが、どこからか②のように上昇して、
③の目標を目指して「九十九折」を登って行く
と理解できたのです。
しかし、肝腎の③の目標がボヤっとしていたのです。
その後、半年のスクールが終わり「資格」を頂きましたが、
肝腎の「一番商品」が出来ていない状態でした。
しかし、独立するには不完全な状況でしたが、
翌年3月に担当したシステム開発が終わるのを見定めて「退職」を決意しました。
何故なら、営業の時に船井総研で学ぶことを喜んでくれた役員が、
東京に転勤して、他の役員が「栩野さんの客をつくるだけ」という状態だったからです。
またしても社内政治に失敗したのです。
この時も亡き妻に相談したら
「私が元気なうちに」
と独立を支援をしてくれたのです。
こんな状況で、結構、高給を頂いていたのですが、
会社への忠誠心が湧かないまま、平成7年7月に現会社を創業したのです。
しかし、肝腎の「一番商品」が見つからない状況でした。
確かに、船井総研の方々が
「無謀にも独立した人(奴?)」
と驚いたのも事実でしたが、
自分の「運」の良さに自信を持っていたので、
前職の退職金を頼りに会社を興したのです。
肝腎のお客様がゼロの状況だったので
確かに、「無謀」なのですが・・
ともかく、何もやらないで日々を過ごす訳に行かないので、
サラリーマン時代の知人に毎月「AMIブレティン」を発行して、
勉強会などを案内しました。
こんな状況を見ていた友人から
「PL法セミナーを手伝わないか」
という声掛けが来たのです。
喜んで若い営業の方とセミナー参加者の「後追い」を行ない、
その中で、名刺交換できた方々に「AMIブレティン」を郵送したのです。
その郵送先の一つから、何カ月か経過して、
「あなたに頼みたいことがある」
という電話がかかってきたのです。
まさに「縁・運・つき」の始まりでした。
お客様は建設機械の製造卸でした。
「失われたxx年」というデフレの入り口の頃で、
同社は、バブルが崩壊した影響で業績が悪化していたのです。
私は初めての経験だったので
船井総研の講師だった宮内先生に相談して、
営業支援して頂き
「船井総研」の看板で
辛うじて信用を得たのです。
初年度、企業診断で約500万円、その後、月50万円の契約になりました。
その骨子は、私が経験したトヨタ系販売店のように
同社の販売ネットワークを創る
がメイン提案でした。
そのコミュニケーション・ツールとして、
当時、企業なら100%普及のFaxによるマス・プル型マーケティング
でした。
契約の際、宮内先生は「クレームが出ても知らんぞ」と念を押されました。
私は、診断のためにヒアリングを実施しながら、
「Faxマーケティング」のノウハウを得る為に
「AMIコンサルティング Frash&HoT情報通信」
を発行することにしたのです。
そして、診断が終わり、右のように船井総研のファイルに
装丁して診断書を提出しました。
確かに、今まで経験したトヨタ系のビジネス・スタイルとは真逆で
建材ルートに建設機械や道具を卸す
という間接的な業態だったのです。
建材ルートに商品の情報を流すと
卸問屋・販売店・ユーザーと下方展開されるのですが
末端ユーザーまで届くのに半年以上もかかる状態だったのです。
当時、「情報を制する者は市場を制す」と言われていたので、
企業なら100%普及のFaxに目をつけたマーケティングを提案したのです。
そして、即効果として、
右の「とくとく商品情報」を本社直需先に発信したところ大ヒットして僅か半年で年商16億円から20億円に跳ね上げる事ができたのです。
思い起こせば、当時は書院というワープロだったので
部材を作成して、B4の方眼紙に貼り付け、10円を持ってカメラ屋でコピーした原稿を送信した
という苦労話がありました。
しかし、事前に「AMIコンサルティング Frash&HoT情報通信」を作成していたので、
「ちらし」としての割り付けに迷いはありませんでした。
この「ちらし」がヒットした理由の一つが最下段の
「ポンピング・チューブ10本で1本おまけ」
の企画でした。
「ちらし」作成の心得の一つは
「ずばり・うれしい・待ち遠しい」
の3要素ですが、メーカーなので定価を下げる事ができないので
「おまけ」にしたのです。
モルタルを送るポンプは殆どがチューブを使っていたので、
自社製品のポンプの他、他社のポンプにも使えるので
ユーザーだけではなく、耳にした販売店からも注文が殺到したのです。
船井先生の教えに
「売上」=F(m、n) m:商品数 n:光る商品数
の公式がありますが、
「ポンプ・チューブ」が大きな光になり、
さらに、地味な訴求でしたが「Nつま~る」のエアベルト進呈もヒットして
レスポンス率は100%を超える(含む:販売店)という「勢い」になったのです。
この企画は半年で年商16億円から20億円に拡大して、
同社は決算手当の他にグアム旅行を楽しまれました。
当然、「勢い」から「流れ」になって「うねり」となって発展するのですが、
ここに一矢「将来の需用を先取りするだけや!」という声が出て、
社長一族の中からだったので「熱」を冷ます状態になったのです。
「幾ら、ここぞという時に介入する」と意気込んでいても
経営者一族の中では歯が立たないのです。
その後、右掲の「商品情報」の発信となったのですが、
右上に商品紹介の社長メッセージをいれたのですが
ある日、社長さんが地方販売店のお葬式に参列して
「皆さん、大変ご無沙汰しています」
と挨拶したところ、
「何言ってんの。あなたが業界に貢献しようとしている姿勢に感銘している」
と参列者に言われたと驚きを話してくださいました。
聞くと販売店の方々がFaxをコピーして見込み客に配布しているとの事でした。
新規機種ばかりでなく、工法の提案も情報提供したのです。
しかし、徐々に効果が薄れたのです。
この会社は
大阪本社を長男が社長で君臨して
東京支店は次男の専務が支店長として東日本を担当し
九州支店は三男の常務が支店長をして先端工法の提案
をされていました。
大阪本社には社長一族の一人が反対勢力となったので、
そりが合わず、コミュニケーションがうまく行かない状況で、
馬があう東京支店の専務とコミュニケーションをとる状態になったのです。
その後、Fax効果が薄れたので契約が切れたのですが、
専務様とは関係を保ち、
例えば、東京でセミナーする際にはお会いする関係でした。
船井総研の宮内先生は
「今日の食い扶持と明日への蓄え」
とおっしゃっていましたが、
目先のことばかりではなく、何らかの蓄えが必要
という事でした。
この「蓄え」の一つが専務との関係を維持したことであり、
次男が東京に出た際に、住まいの斡旋から始まり、ついには就職までお願い
という「縁・運・つき」でした。
次男は可愛がっていただき、今や東京支店の課長になり、
お蔭様で弊社の事務員と遠距離恋愛で結婚して2人の孫を育てている
という状況になっています。
ついつい目先のことばかりに追われますが、
「明日への蓄え」
をどのように残すかが大切です。
特に、人脈が貴重です。
単なる飲み食いだけに終わる人が多いですが、
「PL法セミナーを手伝わないか」と誘ってくれた友人は
サラリーマン時代はIBMを買う会社だったのでFaxだけを買ったのですが、
入社した頃からのお付き合いで50年を超える関係です。
その他にもいろんな方と交流を続けていますが、
最近では中小企業家同友会に参加しており、
「明日への蓄え」という視点では
実家を相続してリフォームした際に親身なってくれた建材業の方や
息子(三男)の教育に一環として青年部に参加していますが、
「婚活」の話が出る
などの会費以上の「見えない価値」もある
などと喜んでいます。
勿論、「今日の食い扶持」は大切なのですが、
やはり、「明日への蓄え」として「人間関係」が
ポイントと考えています。
詳しくはこちらをクリック
エッセイLOG
一覧に戻る
有限会社エー・エム・アイ
大阪府大阪市阿倍野区天王寺町北1-8-47-411
© 2021 有限会社エー・エム・アイ